《説教要旨》『恐れを越える歩み』 大澤宣 牧師
マタイによる福音書17章1~13節
イエスがガリラヤでの伝道からエルサレムへと歩みを進めようとされる時、それは、十字架の受難の歩みへと進まれる時でした。その時、イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネという弟子たちを連れて、山に登られました。そこでイエスの姿が光り輝く姿に変わり、モーセとエリヤが現れてイエスと語り合ったということです。
山という所は、聖書の中で、神様と人との出会う所として描かれます。モーセは、出エジプトの指導者であり、律法を代表する人といわれています。エリヤは預言者を代表する人で、偶像崇拝を行うイスラエルの王たちと戦い、追っ手に追われてホレブという山に逃げ込んだ時、神様の声を聞いたとされています。苦難と迫害の歩みをたどってきたモーセとエリヤがイエスと共にいるということは、イエスのこれからの歩みが十字架の受難の歩みであることを深く印象づけるものでした。
ペトロは、そのことを十分に受け止めることができず、これはすばらしいことですから、ここに記念の仮小屋を建てましょうと言いました。仮小屋というのは幕屋ともいわれるものです。幕屋とは、出エジプトの旅の中で、イスラエルの人々が移動しながら、神様を礼拝する場所も移動させていったものです。
ペトロは、このすばらしい出来事をいつまでもとどめておきたいと思ったのだと思います。その彼らにイエスが示されたことは、記念の幕屋を建てることではなく、また恐れて逃げることでもなく、山を下りて、イエスと共に歩んでいくことでした。イエスが示されたのは、光り輝く姿をとどめておくことではなく、見栄えもしない日常の生活に戻っていくことでした。
人はいろいろなことで恐れを感じると思います。その中でも、自分がしていることが無駄ではないのかと考えてしまうこと。自分が生きていることも無駄ではないのかと感じてしまうこと。これはたいへん恐ろしいことだと思います。それだからこそ、神様は、イエスの光り輝く姿を一度だけ見せてくださり、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」と告げてくださり、だいじょうぶ、間違いないよ、あなたたちはそれでいいのだよ、恐れないで、この歩みを続けていいのだよ、そう告げてくださったのではないかと思います。
恐れを越える歩みへと導かれておりますことを信じ、受け止めていくものでありたい、そして、私の歩みを主が知っていてくださること、共に歩んでくださることを信じてまいりたいと願います。