《説教要旨》『いのちを得るもの』 大澤宣 牧師
マタイによる福音書16章21~28節
ノンフィクション作家石野博子さんが『「喪」を生きぬく』という本の中で、愛する人を亡くした悲しみは何ものによっても埋められるものではない、一人ひとりがその人だけの命をもって生まれてきた、乗り越えようと思っても乗り越えられないものなら、そのように生きていくしかないと語られました。そこに命の重さがある。人の命は命をもってしても取り戻すことはできないのです。
イエスは、「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と言われました。命を買い戻すと言うことは、今は誰かに買い取られているという意味だと思います。人の存在そのものが誰かに買い取られているのです。
「人間は生まれた直後から、死(終わり)へと定められた命を生きている。しかし、あなたは視点を逆転して、終わり(死)から今を生きなさい。」(ハイデッガー)人間は死にとらえられているのか、死の力に買い取られているのかと思います。人は生まれた時から死へと、終わりへと定められた命を生きています。しかし、視点を変えて、終わりから今を生きる時、今という時がかけがえのない時であることに気づかされるのです。
イエスの弟子たちは、イエスが栄光を受けられた時、イエスが十字架に死なれた時、イエスが生きてこられた日々がよみがえってきたのだと思います。
しかし、今日の聖書箇所では、イエスが死と復活を予告しておられるのに、弟子たちは受け止められませんでした。ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言い、イエスから「サタン、引き下がれ」と言われました。サタンの力にとらわれている、そして、死の力にとらえられているペトロの姿でした。
イエス・キリストの十字架によって、私たちに自由が与えられているのです。私たちが、自分にとらわれるのではなく、この世のものにとらわれるのでもなく、神様から与えられた命を自由に生きることがゆるされているのです。
困難の中にあって、悲しみの中にあって、なお、私が神様にとらえられていることを信じたいと願います。神様の愛を知り、自分を愛し、隣人を愛することを覚えていきたいと思います。