《説教要旨》『壊すことと建てること』 大澤宣 牧師
マタイによる福音書12章22~32節
イエスは、「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立っていかない」と語られました。国も町も家も、内輪で争い、お互いを責め合うならば成り立っていかないと語られたのですが、人と人との間が平和でなければならないということを語られたのでした。
イエスは、悪霊にとりつかれ、人々からはじき出されていた人を助けておられました。イエスの宣教の働きは、言葉をもって語られると共に、重荷を負う人たちを支えられ、自由を与えられる働きです。その当然のことをしておられたのに、人々から批判をされたのでした。
「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」。そのように言われるのです。ベルゼブルという名前が何を意味するのかよくわかりません。バアル・ゼブブという列王記下1章に出てくる名前から来ているのではないかといわれます。イスラエルの王アハズヤは、自分の病気が治るかどうか、エクロンの神バアル・ゼブブに聞こうとしたのですが、預言者エリヤに「イスラエルには神がいないとでも言うのか」と、主の言葉を告げられました。ベルゼブルというのは、まことの神様に敵対するものとして考えられてきました。ベルゼブルの力で何かをするということは神様に対する冒涜であるとされてきたのです。これは、イエスを陥れようとする人たちが、イエスが行われることの足を引っ張ろうとしていたことでした。
教会の歩みは受難節の歩みに入っています。主イエス・キリストの十字架を覚える季節です。イエスが中傷され、足を引っ張られるという聖書の箇所が、イエスの受難の歩みを表すものなのです。
イエスは、悪霊の頭ベルゼブルが、その部下の悪霊を追い出すというのならば、そのような集団は成り立ち行かない、それとは反対に、悪霊が追い出されるということは、まことの神様の業が行われるということを意味するのだと言われました。神様の御心がここに表されていると宣言されたのです。
私たちが生きる世界で、多くの人たちが、被災の現実、戦争の恐怖、病の苦しみ、さまざまな困難を負っておられます。イエスは、その現実の中におかれた人を見過ごされることはないのです。イエスによって神様と人との関係、人と人との関係が回復されることを信じたいと思います。
「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」(エフェソ2:21-22)