《説教要旨》『値高い恵み』                 大澤宣 牧師  

 マタイによる福音書14章22~33節

 「行け、行け、心安らかに行きなさい。力強くありなさい。見えざる御手の導きを」。新島襄は、同志社英学校の第一回卒業式でこう語りました。

 マタイ福音書には、イエスが弟子たちを強いて船に乗せ、向こう岸へ先に行かせたと書かれています。そして、ご自身は祈るために山に登られました。この湖はガリラヤ湖だと思われます。あまり大きな湖ではありません。けれども、湖のまわりがすり鉢状になっていて、気温の変化によって突風が吹くことがあるそうです。弟子たちがガリラヤ湖の向こう岸へ行くということは、小さな旅でした。その小さな旅の中でも、逆風に悩まされ、波に悩ませられるということがあったのでした。

 弟子たちの伝道の生涯にも、教会の歴史の中にも、風が吹き、波があります。一人の人がこの世界を生きていこうとする人生の中にも、強い風が吹く時もあれば、波に襲われる時があります。その時、人は驚き慌てます。困難に直面した時、弟子たちはイエスを見誤ったのでした。湖の上を歩いて行かれるイエスを見て、「幽霊だ」と言っておびえたのでした。その時、イエスは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言ってくださるのです。信じて、だいじょうぶだと思っていた弟子たちでしたが、恐れて、心が弱くなるのです。その時、イエスの手がとらえてくださっているのです。

 聖路加国際病院で働いてこられた押川真喜子さんが、『こころを看取る』という本の中でこのように語られました。「“まだまだ大丈夫”と脳天気でいた自分に対して、今は悲しみよりも懺悔と無念さと後悔しかありません。時間が、凍った心を少しずつ溶かしてくれるのを、今は家族やパートナー、友人や私の仕事仲間に助けてもらいながら、前を向いていかなければと。自分自身に言い聞かせているところです」。押川真喜子さんは、お母さんを送られる中で、訪問看護の仕事をしながらも、患者の側に立たされると、いかに難しいことを要求していたのかと思い知らされました。そして、いざというときに、何もできなかったということ。どれほど後悔してもしきれない後悔を抱えながら、働きを続けられるのです。

 「値高い恵み」というボンヘッファーの言葉は、長い時間をかけて探したり、追い求めなければならないものを指します。それを得るためには痛みや犠牲を払ってでも手に入れなければならないもの。自分自身の生きる向きを変えて、それに従っていこうとしなければならない。そのような恵みです。私たちが恐れおののくような思いにさせられる時、主の手がとらえてくださっていることを信じたいと願います。