《説教要旨》『豊かな賜物』                大澤宣 牧師  

 マタイによる福音書15章21~31節

 イエスがティルスとシドンの地方に行かれたとき、ひとりの女の人が近づいてきて、わたしを憐れんでください、娘が悪霊に苦しめられていますと訴えました。そのとき、イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われます。この言葉は、女の人の願いを退けようとされたのではないかと思える言葉です。イエスは冷たい方なのか。すべての人の救い主ではないのか。そういう疑問が起こってきます。

 いろいろな説明がされています。イエスはこの女の人の信仰を試されただけであるとか、ユダヤ人だけではなく異邦人も神様の救いにあずかるのにふさわしい信仰を持っていることが強調されているのだといわれたりします。私がイエスの弁護をするなどということはおこがましいので、私自身、大いに疑問を持ちながらこの箇所を読んできました。

 米田彰男さんが『イエスは四度笑った』という本をの中で、この箇所を取り上げておられます。『イエスは四度笑った』という本の目的は、福音書において、笑っていないイエスを笑わせることだと言っておられます。米田彰男さんの言葉を参考にすると、イエスとこの女の人の対話は、素朴な、愉快な話になるということです。女の人は、イエスが必要としておられた休息を奪うほどの熱心さで、娘の病気の回復を願います。そこにはイエスへの揺るぎない信頼がありました。そして、イエスの言葉を、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちたパン屑はいただくのです」と、みごとにユーモアと機知で切り返したということでした。このとき、イエスは笑っただろうと言われます。聖書には書かれていませんけれども、確かにイエスは笑っただろうと言われます。この人、やるな、一本取られた、と明るく微笑んだに違いない。イエスは快く女の人の願いを聞き入れられ、もうだいじょうぶ、娘さんは回復するよ、家に帰りなさいと優しく語りかけるのです。

 イエスは、心かたくなで、心を動かされない方ではなく、切なる訴えに心を動かされ、共感され、憐れんでくださる方です。このイエスを信じ、約束を信じていく道のり。私たちもその道のりの中にいることを信じたいと思います。私たちが、自分は何も持っていないと思うようなときにも、神様は豊かな賜物を与えてくださっていることを信じてまいりたいと願います。