《説教要旨》『幸いな人々』                 大澤宣 牧師  

マタイによる福音書5章1~12節

 宮澤賢治の「雨ニモマケズ」のモデルではないかといわれる斎藤宗次郎という人がいました。1877年、岩手県花巻市に生まれ、聖書に出会い、花巻市で初めてのクリスチャンになった人です。教師をしていたのですが、中傷を受けて辞めざるを得なくなりました。子どもがいたのですが、けがをさせられたことがもとで9歳で召されてしまいました。その中で、新聞配達をし、聖書を読み、病人を見舞い、励まし、慰めました。雪の日には小学校への道を雪かきしました。

 斎藤宗次郎は自身の生き方として、第一にイエス・キリスト、第二にまわりの人々、それから自分ということを決めていたのでした。後に、内村鑑三のもとで伝道の働きを支えるため東京に移りました。彼の出発を見送るために、小学校の教師、生徒、町中の人たちが集まったということです。

 マタイによる福音書に記された山上の説教は、「心の貧しい人々は、幸いである」と語り始めます。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」と、9つの幸いが語られています。このイエスの言葉を文字通り受け止めることは、現実的なことなのかと問われます。

 しかし、この山上の説教を、文字通り実践された方がイエス・キリストです。そのご生涯を通じて、心のへりくだった心の貧しい人であり、人の悲しみを共に悲しむ人であり、柔和な人であり、この世の不義に心を痛められる、義に飢え渇く人です。憐れみ深い人。心の清い人。平和を実現する人。義のために迫害される人。

 十字架への道を歩まれるとき、人々からののしられます。迫害されます。身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられます。そのように考えるとき、この山上の説教が実現可能か不可能かと、客観的にみている場合ではなく、このイエス・キリストを罵ったのはだれか、迫害したのはだれか、悪口を浴びせたのはだれか、それは私ではないのかと問われるのです。

 私が、心高ぶるとき、自分を高く評価されないと気がすまないというとき、イエスの言葉が私に問いかけてくることを思わされます。心のへりくだったもの、柔和で、平和を実現しようとするあり方へと進むことを示されます。そのあり方こそ、この地を受け継ぎ、天の国を受け継ぐものであることを信じてまいりたいと願います。