《説教要旨》『一人を大切にされる方』 大澤宣 牧師
マタイによる福音書11章2~15節
イエス・キリストの先駆けとなる洗礼者ヨハネとイエスの対話の場面です。ただし、イエスとヨハネは直接会っていません。弟子たちを通してヨハネは尋ね、イエスが答えています。ヨハネはヘロデ・アンティパスによって牢に捕らえられていました。
洗礼者ヨハネは、人のあり方をいましめ、ただそうとしたのでした。神様の前に罪深いことを認め、悔い改めることを求めたのでした。自分を見つめ、行いをただすことが、神様の前にあるべき姿であると教えていました。
イエスは、弱さの中にあり、「罪人」と呼ばれた人たちと飲んだり食べたりしておられました。正しくあれといわれても、そうなり得ない人々でした。当時、正しいというのは律法を守ることでした。それぞれの事情があって律法を守れない人が多くいたのです。その人たちの中にあって、その弱さを共に担われたのがイエスなのだと思います。イエスは、貧しい人々、体の不自由な人々、「罪人」と呼ばれた人々と共におられました。捨てられ、十字架につけられる無力なイエスが救い主なのでした。
佐藤全弘さんという方が紹介しておられる話です。農村に生まれたある方は、学校に行く前に鶏小屋から卵を集めることをしていました。ある朝、鶏小屋に行くと鶏の死骸が散乱していました。狐のせいでした。何羽か残っていましたが、鶏たちはショックを受けて卵を産まなくなってしまったのです。その方はお父さんに教えてもらって、学校から帰ると鶏の面倒を見ました。鶏を一羽ずつ胸に抱いて、撫で、さすり、声をかけたのです。はじめはバタバタしたり、そわそわしていた鶏が、そうしているうちに落ち着いてきました。やがて鶏は卵を産み始めたのでした。佐藤さんは言われます。鶏でさえそうなのだ。まして人の子はどうだろう。人は厳しくされるだけでは成長しません。あたたかく愛され、受け容れられて成長していくのです。
ヨハネの厳しさも大切かもしれませんが、一人をあたたかく愛し、受け止めてくださるイエス・キリストの愛の中で、私たちは育てられ、守られ、神様を見上げていくことができるのです。
今、世界中で多くの命が脅かされ、多くの人たちが悲しみの中におられることを知らされています。私たちにできることが何かわかりませんが、神様が与えてくださる平和を祈り、ひとり一人が守られますように祈りたいと思います。