《説教要旨》『恵みの時を迎える』 大澤宣 牧師
マタイによる福音書13章53~58節
「この世に生きる価値のない人などはいない。人は誰でも、誰かの重荷を、軽くしてあげることができるのだから」。クリスマスキャロルを書いたディケンズの言葉です。クリスマスキャロルは、スクルージという人が、過去、現在、将来を見つめ、自分の姿を思い知らされ、心を入れ替えていく物語です。
ディケンズは、その体験から、貧しくされている人々、弱くされている人々の視点に立って語りました。皆、それぞれがそこにいることを通して、喜びを共にし、悲しみを共にすることができるのです。誰かの重荷に心を及ばせる時、重荷は共に担われていくのです。私たちは、自分自身を振り返る時、心をしずめて、悔い改める心をもつものでありたいと思います。
イエスがナザレの会堂で教えられた時、人々はイエスの言葉を受け容れようとしませんでした。この人の家族のこともみんな知っているのに、いったいどこでこのような知恵と力を得てきたのだと不審に思ったのでした。それぞれの苦しみ、困難を味わっている人々が、解放を告げられているのに、それを、自分たちが知っているイエスの言葉だから聞くに値しないとしてしまったのでした。
彼らは、いつも通りのことが行われ、目新しいことがないことに不満だったのです。ヨセフの子イエスという珍しくないものの言葉では物足りないと思って、心を閉ざしてしまったのでした。しかし、ただお客さんのような姿勢でいて、心を閉ざしていたのでは、何も始まりません。困難を覚え、行き詰まりを覚えることの中に、イエス・キリストが来られることを受け止める。その時が恵みの時なのです。
北海道大学の教師であったハロルド・レーンさんとポーリン・レーンさんという夫妻は、太平洋戦争が始まった時、スパイの容疑をかけられて逮捕されました。外国人であること、キリスト者であることから、信仰に基づく反戦主義者とみなされ、目障りな存在であるとされたのでした。その時、大学も教会も冷たい反応をすることしかできませんでした。誰もが巻き込まれたくはなかったのでした。しかし、痛み多い、個人の力など無力に思われる中に、なお神様が共にいてくださったのでした。
時代の厳しさの中で、人の力は無力にされていくことがあります。無力にされたものに、なお神様が働いてくださり、恵みの時を備えてくださる。「がんばりましょうね」と共にいることに導かれるのです。
困難を覚え、行き詰まりを覚える現実の中に、主イエス・キリストは来てくださいます。私たちが心を閉ざすのではなく、主を受け止めるものでありたいと思います。私たちそれぞれの生活の中に、恵みの時が来ていることを信じるものでありたいと願います。