《説教要旨》『主の道をまっすぐに』                大澤宣 牧師

マタイによる福音書3章1~12節

イエス・キリストの先駆けといわれたバプテスマのヨハネは、悔い改めにふさわしい実を結べ、良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれると語りました。これを、」誰かを非難して、あの人はだめだという言葉だとは受け取りたくありません。だれもが良い実を結ぶ木になれるのだ、みんなでそうなろうという呼びかけだと受け取りたいのです。

悔い改めとは、これまで神様に背中を向けてきた生き方をしていたところから、心を入れ替えて、方向を変えて、神様の方に心を向けるということです。自分たちは神の民だ、罪のない人間だと開き直ることはできない。民様の前には自分自身欠けのある人間であることを認めて、神様に心を向けていくことを大切にしなければならないと受け止めることです。バプテスマのヨハネはそういう一つの運動を起こしました。そこで、ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派というユダヤの中でも主流であった人たちに向かって、非常に激しい口調で語りました。

人間の中に良いものがあるならば、その人は良い実を結ぶはずであると語ります。しかし、人間はどんなにがんばっても、神様の前には良い実を結ぶことのできないものであるから、神様の前に悔い改めて、悔い改めにふさわしい実を結べと語りました。それは、ファリサイ派の人々にも、サドカイ派の人々にも、共に生きる歩みに加わってほしいという祈りだったのだと思います。

イエスは、マタイによる福音書7章15節以下で、「茨からぶどうが、アザミからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」と語られました。人間の中にあるものは、どうしても外に現れてきて、その実で人は見分けられるということです。

人の中にあるものは見えません。見えないけれども、人の中に愛があるならば、それは人を愛するという形になって現れるはずです。イエス・キリストの言葉から、そう問いかけられていることを思います。

テリー・フォックスさんというマラソンランナーがおられます。重い病気を患い、ハンディを負いながら、自分だけではなく、多くの人たちが病と闘っていることに励まされ、「希望のマラソン」を行って、研究のための募金を行いました。彼の志は多くの人に受け継がれていきます。さまざまな人々が共に生きることの中で奇跡が生まれてくることを教えられます。

イエスの歩みは、人に出会われ、共に生きられ、その人生を担われたパートナーの歩みであるということを受け止めてまいりたいと思います。