《説教要旨》『互いに受け容れる』             大澤宣 牧師

マタイによる福音書5章28~48節

「言葉がわからなければ、異国で『しょうがい』を持つ。泳げなければ、海で『しょうがい』を持つ。段差がなければ車イスの人は『しょうがいしゃ』ではない。私が泳ぎを教えれば、あなたは海で『しょうがいしゃ』ではなくなるでしょう」。リオデジャネイロ・パラリンピックに出場された方の言葉です。

世の中では『しょうがいしゃ』とひとくくりにされることが多いです。けれども、ひとり一人がおかれている状況はさまざまです。健常者だと思っている人も、年齢を重ねられたり、病気やけがを負われることで、体の不自由さを抱えられることがあります。人のことを『しょうがいしゃ』と呼んでしまうことよりも、それぞれの人に、どういう配慮が必要なのかということが大切です。私のそばにいる人が何を必要としているのか。私は何を必要としているのか。何が人を生きにくくさせているのか。そのことに心を向け、共に生きていくための取り組みが大切だということを思わされます。

イエス・キリストは、人を排除する枠組みを取り払われた方です。神様は、人が隣人だとする人にも、敵だとする人にも、等しく望んでくださり、等しく恵みを与えてくださいます。自分は善人だと思う人にも、悪人であると決めつけられた人にも、同じように太陽を昇らせ、雨を降らせ、恵みを与えてくださいます。自分だけが正しいと考える人にとっては不可解なことです。しかし、神様の愛は、そのような人間がつくった排除の枠組みに左右されるのではありません。神様が愛されるものを、人間が自分の都合で、これは隣人、あれは敵と分け隔てすることの方が、あってはならないことである。イエスはそう訴えているのだと思います。

藤井創さんという方が、サンフランシスコのある教会のことを紹介しておられました。日曜日ごとに、あらゆる人々が共にいる喜びがあふれた礼拝を行っています。金持ちの人もおり、住む家のない人もいます。黒人も白人も。アジア系アメリカ人もヒスパニックも。男性、女性。同性愛者、異性愛者。HIV感染者。麻薬中毒の人。人には言えない問題を抱え、それを訴えたくてもどこにも持っていけなかった人たちが、自分の居場所をここに見つけ出しているのです。車イスの女性が賛美の奉仕に加わっています。体の不自由さを持つ人が自分の居場所を持っている、あたたかさに満ちた教会だということです。

人が自分の都合や社会的な都合で設けている枠が、神様の前には意味を持たないことを、イエスは告げられ、私たちが共に生きる歩みへと進むように招き出してくださっています。私たちの教会のあり方、私たちそれぞれの生き方に問いかけておられることを覚えていきたいと思います。