《説教要旨》『主にまかせて』 大澤宣 牧師
ローマの信徒への手紙3章21~26節
医師の柏木哲夫さんは講演の中で、人は生きてきたように召されていくと思っていたのに、そうではなく、人は絶えず成長し、絶えず変わっていくものだと感じられたと語っておられました。特に、地上の命の終わりを迎えるという、最も困難で、最も受け容れがたいことに直面し、それを受け容れる時、人は変わっていくことを感じられたと話されました。
パウロは、神様の前に正しいものとされることは、イエス・キリストを信じることによるのだと語ります。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と言われます。教会に来ると罪のことばかり言われると思われるかもしれません。自分が正しいと考えること、思い通りにならなければ許さないと考えること、自分が中心であるかのように考えること、そういうことを聖書は罪といっています。本当は、神様が中心で、私たちは生かされているものなのに、自分は自分の力で生きているように思い、自分が中心だと考えること、的をはずすこと、それが罪であると語るのです。
聖書の中で、律法というものは、神様と人との間に交わされた約束として、神様の恵みにふさわしい人間のあり方を示すものでした。ところが、律法さえ守ればよいと考えるようになった時、人を差別するものになっていったのです。病気や体の不自由さはその人が悪いわけではありません。貧しさも、どうしようもないことです。けれども、そのために律法を守れない人を裁いていったのでした。
イエスは、弱さを持つ人たちを愛し、支え、励まし、共に生きられました。それこそが律法の精神であり、イエスによって、私たちは、神様とのふさわしい関係を回復されていくのです。
私たちは、神様の大きな恵みの中におかれていることに心を向け、自分の強さにこだわるよりも、自分の弱さを覚え、その弱さを神様に委ねていくものでありたいと思います。
召天者記念礼拝をまもっています。天上におられる先達たち、そのいっさいが神様の恵みの御手に委ねられていることを覚えるものでありたいと願います。天と地と、ところを異にしつつ、神様に賛美をささげることを信じる者でありたいと願います。