《説教要旨》『ひとつとなるために』              大澤宣 牧師

ヨハネによる福音書17章20-26節

信徒伝道週間、教育週間が始まります。教会の宣教の業、伝道の働きは、教会に連なられるお一人お一人に託されておりますことを覚えて、それぞれのご生活の中で神様を証する歩みをすすめていただきたいと思います。また、教育週間として、こどもたち、おとなの方たちが、神様のこどもとして、日々成長させられていることを覚えたいと思います。こどもの礼拝、CSのお働きを覚えていただきたいと思います。

ずいぶん前のものですが、『かみさまへのあたらしいてがみ』という本があります。こどもたちの素朴な言葉が集められています。その中にこのような手紙があります。「かみさま、くにぐにの まわりに せんなんか ひいたのは だれですか?」このような言葉に出会いますと、こどもの手紙は無邪気だということではすまされないことのように思います。

イエス・キリストは、十字架につけられるために捕らえられる直前、「すべての人を一つにしてください」と祈られました。現実には、国と国とのまわりに線がひかれ、人と人との間に線がひかれています。さまざまな信仰、思想信条があります。そこに争いがあります。その世界の中で、共に生きていこうとすること、そして、いつか、すべてを超えて、和解の実がなる時が来ることを思います。

実際には、イエスの弟子たちは、ひとつにされるどころか、イエスの十字架の前にばらばらにされていくのです。ヨハネによる福音書がまとめられた時代にも、教会は激しい迫害にあっていたといわれます。けれども、イエスの十字架は、天地創造から、黙示録の時にいたるまで、復活を先取りするものとして描かれていきます。

政治学者宮田光雄さんは、創世記のノアの箱舟の物語に出てくるハトは、新しい世界がつくられるしるしだと言われ、また、イエスの宣教のはじめから、十字架と復活を指し示すものだと語られました。この世が完成する時、すべての壁は取り除かれていくのです。

復活の主にあって、わたしたちの現実が超えられていくことをおぼえながら、それぞれの仕方で、共に生きることを祈り求めていきたいと願います。