《説教要旨》『復活の希望』                大澤宣 牧師

ヨハネによる福音書11章45-54節

神学校日、伝道献身者奨励日を迎えました。伝道者、教師を養成する神学校のお働きを覚えて祈りたいと思います。また、伝道者となるには神学部で学ばなければならないということでもありません。ご自分で学ばれて伝道者となる道もあります。それと共にすべての人が福音の伝道のために召されていることを大切にしたいと思います。

伝道の困難な時代だということも言われておりますが、伝道に順調な時というものはあったのだろうかと思います。聖書によりますと、イエスは、バプテスマのヨハネがとらえられるという、迫害が起こっているときに、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、伝道の声をあげられたのでした。

今日の箇所でも、祭司長たちとファリサイ派の人々が集まって、イエスを殺そうとたくらんでいました。そのような中でイエスは働かれるのです。ここで言われる「イエスのなさったこと」とはラザロを復活させたことだと思われます。イエスは、ラザロが亡くなり、マリア、一緒にいた人たちが泣いているのを見られて心に憤りを覚え、涙を流されたのでした。それは、はらわたが引き裂かれるほどの痛みをもって悲しまれたということでした。その痛みをあらわされたイエスが、ラザロを復活させたということに、祭司長たち、ファリサイ派の人々は警戒感を持ち、イエスをどうしてやろうかと思ったのでした。

「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」。これは、大祭司カイアファが、自分の思いで言ったことだと思いますが、ヨハネ福音書は、それを、カイアファが自分の考えから話したのではないと語っています。人間の思いを超えて、神様がなさろうとされることを預言したのだと語るのです。人の思いがあっても、それを超えて神様は働かれるのだと思います。

イエス・キリストが十字架に死なれ、復活されたのですから、神様はイエス・キリストによって眠っている人々をも、イエス・キリストと一緒に復活にあずかるものとして導き出してくださるのです。私たちの命が、主と共にあることを信じながら新しい歩みを進めていきたいと願います。