《説教要旨》『羊の名を呼ぶ羊飼い』 大澤宣 牧師
ヨハネによる福音書10:1~6
名前を呼ぶということが、その人の存在そのものを認め、受け容れることであるということ、そこから人と人とのつながりが生まれることを思わされます。ところが、自分のいそがしさに心を奪われ、あるいはこの世的な価値観にとらわれて、人を評価してしまい、名前を呼ぶことの大切さを見失ってしまっているかもしれません。
神学者の宋泉盛さんは、キリスト教の宣教ということも、その人の名を呼び、その人の生活や文化の中に入っていくものでなければならなかった、それなのに、これまで、欧米の文化を押し付け、アジアの文化を否定するような仕方で宣教が行われてきたことを指摘しておられました。
ヨハネ福音書で、イエスは言われます。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」
このイエスの言葉は、羊にたとえられた一人ひとりの人格を、この世の価値観で評価するのではなく、その人として認め、呼びかけるあり方を示されるのだと思います。
一人の人の命は地球全体よりも重いという言葉があります。現実には、人の命が軽んじられていることを考えさせられます。どのような業績を上げたか。どのような評価を得ているかで見られるのがこの世界のありさまではないかと思います。
テレビドラマで、戦争を体験した人と小学生たちの友情を描いたものがありました。一人ひとりが名前を持ったかけがえのない人格であること、そこに何ものにもかえることのできない重さがあることを知らされます。
作家の大江健三郎さんは、核兵器廃絶を訴え続けられ、被爆者を支援する活動に取り組んでこられました。多くの問題のあるこの世界の中で、人の存在そのものを消し去ってしまうような核兵器の恐ろしさから、この問題に取り組んでこられたと語られました。
神様から命を与えられ、かけがえのない存在とされていることを受け止めたいと思います。
イエス・キリストに名前を呼ばれ、精一杯生きるようにと呼ばれていることを思います。