《説教要旨》 「かみさまがおつくりになったせかい」 大澤 宣 牧師
ヨハネによる福音書7 : 10~17
新聞にこのような歌が紹介されていました。「安らかに眠ってくれと言われても眠れるものかああ八月六日」。
戦争の犠牲となられた方、今犠牲となっている方のことを思い、私たちは語る言葉がないことを思わされます。しかし、それと同時に、これからの時代に向かって、戦争の悲惨さ、核兵器の恐ろしさを語っていかなければならないのだと思います。
ヨハネ福音書に、イエスが、仮庵祭の時、人目を避けてエルサレムに行かれたことが書かれています。それは、イエスが、ご自分の時がまだである、まだ今は語る時ではないと考えられたからではないかと思われます。しかし、イエスは語られたのです。それは、やむにやまれぬ思いで語られたのではないかと思います。過越祭の時、神殿から商人を追い出されるということをされました。それは、神殿の権力者たちが、人々から搾り上げている、その支配の構造を指摘しないではいられなかったのだと思います。また、安息日に38年間放っておかれた病気で苦しむ人に「起き上がりなさい」と声をかけられました。イエスは、わたしが勝手に話しているのではない、神様から出た言葉を話しているのだと言われました。イエスは、語らざるを得なかったのだと思います。
語り得ないものについては、沈黙しなければなりません。語る言葉を失う時もあります。けれども、語らなければならない時があるのです。
田中正造という自由民権運動の指導者がいました。足尾鉱毒事件に取り組んだ人です。田中正造は、被害の大きかった谷中村に住み、強制退去を拒んでいた百数名の人たちの一人として生涯を終わりました。
このような手紙をのこしています。
「見よ、神は谷中にあり。聖書は谷中人民の身にあり。苦痛の中に得たる智徳、谷中残留民の身の価は聖書の価と同じ意味で、聖書の文章上の研究よりは見るべし学ぶべきは、実物研究として先ず残留民と谷中破滅との関係より一身の研究をなすべし。徒に反古紙を読むなかれ、死したる本、死したる書を見るなかれ。聖書にくらべて谷中を読むべきなり」。
田中正造は、この世の力なき人々の中に立たれるイエス・キリストの姿を見たのだと思います。
『かみさまがおつくりになったせかい』という本があります。神様が造られた世界で、人間は自分たちが中心であるかのように振るまっています。戦争を生み出し、環境を破壊しています。私たちにも語るべき言葉があります。決して平和ではないこの現実の中に、平和を造り出していく言葉があることを信じたいと思います。