++《説教要旨》 『イエスの大いなる業』 大澤 宣 牧師

ヨハネによる福音書 5:19~25

「使命というものは、自ら買って出て担うものではありません。それは、生かされている所で誠実であろうとする構えが、自然に見出し、止むをえないこととして、担い、そして果たしていくものです。」藤木正三牧師という方が語られた言葉です。神様を信じて生きるということは、私たちに命を与えてくださる方をおぼえることです。私たちは、命を、ただ何となく生きていくのではなく、自分にふさわしい形で生きていくことができればよいと思います。その中で、ひとり一人が、生かされている喜びを味わい、いきいきと生きることができればと思います。

イエス・キリストは、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」と語られました。イエスのなさることは、神様のなさること、そのものなのだと思います。

ヨハネ福音書5章冒頭で、イエスは、ベトザタの池のほとりで病気の人をいやされました。何も仕事をしてはならないとされる安息日に病人をいやしたということで人々からとがめられました。その時イエスは、わたしをお遣わしになった方、神様の御心を行っているのだと言われたのです。

20節で、イエスは、「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる」と語られました。

イエスが示された業とは、この世の中のいと小さき者を受け容れることであり、僕となって仕えることであると思います。しかも、御自身の命をささげて、多くの人の贖いとなることです。

山口里子さんが、スティーブン・ポール・ジョブズの言葉を紹介しておられました。

「あなたの人生の時間は限られているのだから、他人の人生を生きて無駄にするのではありません。誰かの意見の騒がしさでなく、自分自身の内の声に耳を傾ける。最も大事なのは、あなたの心と直感についていく勇気を持つこと。他でもなく、自分自身の人生を生きるように。」

イエスは、ひとりの人が、その人の人生を生きることができるように、祈られ、病をいやされたのだと思います。私たちは、謙虚に、神様の御心をたずねていく思いを大切にしたいと思います。その中で、命が豊かに生きられることを求めていきたいと思います。