《説教要旨》 『信じて帰る道』 大澤 宣 牧師

ヨハネによる福音書 4:43~54

『深い淵の底から』(日本キリスト教団出版局)という本に、友人のお父さんが書かれた文章が載っています。この方のお連れ合いさんは、57歳の時にアルツハイマーを発症され、それから、ひとときも離れることのない介護の日々が続きました。当時の医学では回復の見込みのない病であることがわかっていても、奇跡的な回復をひたすら祈られました。コリントの信徒への手紙二12章に書かれた、パウロが体に与えられたとげを取り除いていただくように神様に祈った祈りと同じでした。パウロに与えられた言葉は、「わたしの恵みはあなたに十分である」という言葉でした。

この方は聖書の言葉に突き放されたような絶望を感じられたのです。パウロの願いはかないませんでした。この方の願いも聞かれませんでした。しかし、信じる心、信じられない心、祈ること、絶望すること、その思いのすべてが神様に向けられていることを信じることへと導かれました。

イエスの前に立つカファルナウムの王の役人は、自分の息子が命の危機に直面しているという中で、イエスの前に願い出ました。まわりには、イエスがエルサレムで力ある業を行われたので、そのしるしや不思議な業を見たいという人があふれていました。

イエスは、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われましたが、役人は、ただ、「主よ、子どもが死なないうちに、おいでください」と言うばかりでした。その時、イエスは、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と告げられたのです。この言葉を受けて、役人は、イエスを信じて帰っていきました。なりふりかまわず、イエスの前に進み出て、言葉を受け信じて帰っていく。この姿の中に、希望があるのです。

今治教会に村上春枝さんという信徒がおられました。全身の不自由さを抱えながら過ごしておられましたが、聖書の言葉に触れ洗礼を受けられました。生活の不自由さは変わりませんでしたが、この方は変えられたのです。「喜びに満ちし我が霊天かけり身は地にありと知らで暮らしぬ」「かずかずの友を残して我一人召されて帰る旅のうれしさ」このような歌をのこしていかれました。

それぞれに生かされている場にあって、私たちを見守り、導かれる主が、命を慈しまれる主であることを覚え、ひとり一人が、その人らしく生かされていることを信じて進むものでありたいと願います。