《説教要旨》 『労苦の実り』 大澤 宣 牧師

ヨハネによる福音書 4:31~38

六二三 八六八九八一五 五三で繋げ我ら今生く 新聞に載っていた岸和田市の西野防人さんという方の詩です。六二三は沖縄の組織的戦闘が終わった日。八六は広島、八九は長崎、八一五は日本の敗戦を表しています。その犠牲の上に、五三という日本国憲法につながって、私たちは今を生きるということを詠っています。6月23日は、「沖縄慰霊の日」とされている日です。沖縄での戦闘はその後も続き、8月15日をこえてもなお続きました。多くの命が失われた戦争の果てに、平和への願いをつなぐ祈りがあるのです。

東神戸教会は、1946年、灘購買組合文化部の聖書研究から始まり、1953年に設立された教会です。田中忠雄さんの「戦後日本に再臨するキリスト」の絵を見上げながら、「今この戦後の日本にキリストが再び来られたなら、どのような生き方を目指されるだろうか」と問い、また問われながら歩んでこられました。復活の主が再び来られる終末の時まで、収穫の刈り入れは続けられるのだと思います。

「一人の人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」。イエス・キリストが語られた言葉です。種を蒔く人とは、神様の御言葉を伝える人のこと。刈り入れる人とは、イエス・キリストを信じる信仰を多くの人々と分かち合う人のことだと思います。

種を蒔く人の労苦を、刈り入れる人が知らないということはないと思います。そこには、労苦されたことへの感謝があるはずです。それだからこそ、種を蒔く人も刈り入れる人も、共に喜ぶことができるのです。それぞれの労苦が実りへとつながっていることを覚えて、感謝と喜びを与えられる言葉なのだと思います。

イエス・キリストは、シカルの井戸辺で出会われたサマリアの女の人も、また、多くの人の心の重荷、体の重荷、生きることの重荷、労苦を受け止められ、ご自身のものとしてくださいました。

人の思いでは、人が生きることの重荷を受け止めきれないかもしれませんが、十字架の重さを味わわれたイエス・キリストは、それを共に担ってくださり、受け止めてくださるのです。私たちそれぞれが抱える重荷を、イエスご自身のものとしてくださるのです。私たち一人一人が、イエスの蒔かれた種、労苦の実りに与るものとされておりますことを信じたいと願います。