《説教要旨》 『この世はみな』 大澤 宣 牧師

ヨハネによる福音書 4:19~26

韓国、慶州に「慶州ナザレ園」というところがあります。戦中戦後に韓国人と結婚した日本人で、時代の荒波の中で、家族を失った方たちが暮らしてこられたところです。帰国の手続きがされたのですが、家族の反対を押し切って韓国に渡った人たちには、帰るところがありませんでした。行き場を失った人たちの生活の場として、菊池政一さん、金龍成(キムヨンソン)さんたちによって「慶州ナザレ園」がつくられました。金龍成さんは、「政治では人は救えない」という父の言葉を胸に働いてこられました。「慶州ナザレ園」はつらい思いをしてこられた方たちにとって、安住の地であり、終の棲家であり、その人たちにとっての「御国」でした。

イエス・キリストに出会ったサマリアの女の人がいます。積極的に人と出会うことを好まなかったかもしれないこの人は、イエスと話をする中で、礼拝すべき場所という当時の事情に触れます。

サマリアの人たちとエルサレムを中心とするユダヤ人との間で、礼拝をするということについて行き違いがあったのでした。イエスはその人に、霊と真理をもって礼拝することこそ、まことの礼拝であると語られました。この山でもエルサレムでもないところで礼拝をする。それがあなたの礼拝の場所であり、あなたの聖所であり、あなたの御国なのだと語られたのではないかと思います。

聖書の中で、霊とは空気の動きを表す意味でつかわれている言葉です。創世記の天地創造の場面では、人は土の塵で作られ、命の息を吹き入れられたと書かれています。イエスは、あなたに神様の命の息は与えられている、ここがあなたの礼拝の場所であり、今この時がまことの礼拝をささげる時なのだと告げられたのです。

カトリック教会の晴佐久昌英司祭という方が『生きるためのひとこと』という本の中で、「今、ここ」に目覚めてほしいと語っておられました。「今まで頑張ってきたのだから」ではなく、「きっとそのうち楽になるから」でもない、過去にも未来にもじゃなされない、「今、ここ」に生かされていることを大切にしてほしいということです。

讃美歌361番は、1954年版では90番「ここもかみのみくになれば」と歌う讃美歌です。どうしてこのようなことがと思うことがないとも限りません。その時にも、この世はみな、神の世界であることに思いをはせ、主に治められることを信じてまいりたいと願います。