《説教要旨》 『主の姿見えねども』 大澤 宣 牧師
ヨハネによる福音書16:25~33
星野富弘さんが天に召されたということが報じられていました。体操の演技中の事故で体の自由を失った星野さんは、長い苦悩の中、信仰を与えられ、詩を書かれ、絵を描かれるという活動を進めてこられました。「苦しみによって苦しみから救われ、悲しみの穴をほじくっていたら喜びが出てきた。生きているっておもしろいと思う。いいなあと思う。」星野さんの道は平坦ではなかったと思います。その中で、神様の愛を信じ、新しい出発をされたのだと思います。
復活のイエスが天に昇られたことを心に刻む「昇天日」という日を迎えます。弟子たちにとっては、イエスの姿が見えなくなる、声が聴けなくなるという、戸惑いを覚える時だと思います。その中から、新しく生きる道に立たされているのです。
イエスは、十字架の死に先立って、これから弟子たちが、苦難の中を生きていかなければならないこと、けれども、これまで以上に、神様が愛し、助けてくださることを信じるようにと告げられました。イエスの弟子たちも、迫害を受け、苦難を味わわされることになるのですが、イエスの名によって、神様に願うようにと語られます。その約束を信じて、弟子たちは進んで行くのです。
主の姿が見えないからこそ、主は私たちの生活のすべてにおいて、助け主として守ってくださると約束されたのです。
第二次大戦中、デンマークにカイ・ムンクという牧師がいました。デンマークでも、ナチスによってユダヤ人への迫害が行われていることに対して、抵抗運動を進めていました。カイ・ムンクは、自分にとってイエスとは、人生のすべての領域を貫いて主であると語っていました。キリストは、私たちの生活の一部分ではなく、すべての面において私たちの主であり、どんなに暗い時代にあっても、この世界を切りひらいていかれる方であるということでした。
神様が私と共にいてくださるのです。イエスの名によってどのようなことでも願うようにと告げられるのです。私たちの現実に働いてくださる主が共にいてくださることを信じて、勇気を与えられて生きるものでありたいと願います。