《説教要旨》
『信じる幸い』 大澤 宣 牧師
ヨハネによる福音書20:24~29
神様を信じるということは、希望をもって生きるということです。イエス・キリストを信じる時、私たちは、どのような時も、どのような場にあっても、希望をもって生きることができるのです。神様も、イエス・キリストも、希望も、私たちの眼には見えないものです。だから信じるのです。それが、私たちが生きることを豊かにしてくれます。
イエスの弟子トマスは、、復活の主に出会ったという他の弟子たちの言葉を信じようとしませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」。トマスの言葉は、ある意味で、私たちの思いを代弁してくれているのかもしれません。その、信じることができない人たちに、復活のイエスは出会ってくださり、あなたがたに平和があるようにと告げられたのです。パウロも告げました。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。(コリントの信徒への手紙二4:18)
3年にわたる厳しい闘病生活を送られた7歳の少女がおられます。死ぬのがこわいと訴えていた彼女でしたが、自分は子羊のようにイエス様に抱っこされるのだと語りました。信仰をもつことは、恐れや不安が解消されることではありません。イエスもゲッセマネで、「死ぬばかりに悲しい」と訴えられました。苦しみを味わわれたイエスが、死を超えた命を示されたことを心に留め、幸いを与えられるものでありたいと願います。
イースターを迎えました。私たちがイエス・キリストの十字架の死と復活に思いを巡らせ、信じることの幸いへと思いを向けていくことから、新しい年度、歩み始めたいと願います。